1981年に会社を創業し、今なお第一線で活躍する創業社長を密着取材。
日々新たなことを吸収しながら、新たな分野で挑戦し続けています。

今回は、sotを運営する海川商事株式会社の創業者兼代表取締役社長、海川直樹を取材しました。

海川 直樹(うみかわ なおき)
1962年2月7日生まれ。愛知県名古屋市出身。
単身上京し、2001年にレザーブランド「sot(ソット)」を創業。

19歳で喫茶店を創業。三重県を舞台に挑戦を続けた会社の立ち上げ当初

海川は、若干19歳のときに喫茶店を創業。
工業高校を卒業したばかりの若者がどのように会社を作り、発展させていったのか。
会社で働くスタッフですら知らない話を聞くべく、今回取材してみました。

 

–19歳で会社を作ろうとしたきっかけはなんですか?

海川:あの頃は、まだ20歳にもなっていない田舎の若者でした。ただ、20歳になって独立する人は大勢いる中で、私は10代で挑戦するという事実を作りたかったんです。とにかく自由で挑戦的な生き方をしたかった。あのタイミングで独立していなければ、おそらくどんどん先延ばしになっていたでしょうね。

 

–最初に喫茶店を創業したとのことですが、飲食店での経験はあったのですか?

海川:飲食店でアルバイトを1年ほどしたことがある程度です。ただその1年は365日休むことなく働き、250万円ほどの貯金を作りました。その1年のおかげで、肉体的にも精神的にもタフになれました。経験というよりも、それほどの覚悟があったからこそ創業できたのだと思います。

 

–喫茶店での苦労や思い出はありますか?

海川:最初は全くお客さんが入らず、1日の売り上げが1万円もありませんでした。余ってしまったコーヒーは、近所の人にポットで持って行って配ってましたね(笑) 今の時代では考えられないようなことです。


↑ 写っているのは長女です

 

–そこから喫茶店が成功した理由はなんだったのですか?

海川:とにかくインパクトの強いメニュー名のパフェを作りました。「くそババア」という小倉抹茶パフェや、「プリンちゃんファミリー」というパフェを売り出したり。今だったら多方面から批判を浴びるでしょうね(笑) ただ、僕たちが若かったからこそ周りの人達は笑ってくれたし、格好つけなかったことで地元の人々が愛着を持ってくれたんだと思います。


↑「プリンちゃんファミリー」のイメージ図を描いてもらいました

喫茶店からジーパン屋への大転換

しかし、ファミレスやコンビニの台頭により喫茶店の業績が下降。
それが喫茶店からジーンズ屋へ大転換を果たします。

それが今なお続くアパレル事業の始まりです。

 

–ジーンズ屋を始めようと思った頃の話を教えてください。

海川:ジーパンが好きだったというそれだけの理由から、ジーパン屋を始めました。貯金が60万しかなかったので、とにかくたくさんのジーンズメーカーに電話し、売らせてもらえないかを聞き続けました。でも、当時は全くの素人かつそれだけの貯金しかない20代中盤の若者。当然返ってくるのは「無理」という返事。ただ唯一、当時EDWINで上司の反対を押し切って力を貸してくれた人がいました。当時40歳くらいの営業マン、猶原さん。名前もはっきり覚えていますし、とても感謝しています。その方からジーンズの縫い方から取引先の紹介まで、必要なことを全て1から教わりました。

 

–それでジーパン屋を開業することができたのですね。

海川:喫茶店の横にあったボロボロの小屋を改造し、そこでジーパンの販売を開始しました。それが、セレクトショップ「ANTOM SIDE(アントムサイド)」の始まりです。田舎だったこともあり競合もなく、オープンから行列続きの大盛況でした。その噂を嗅ぎつけたメーカーからの連絡が増え、品揃えが整いました。そして、ついに名古屋へ進出を実現しました。

 

–三重県の田舎から名古屋への進出ですか。

海川:自分のブランドを作りたくて名古屋に進出しました。ただその後、更なる影響力を持ちたくて東京に進出したいという気持ちが芽生えました。

周りの反対を押し切って果たした東京への進出

家族や会社の人達みんなに反対されながら単身上京。代官山に一号店を構えます。
それが、アパレルブランド「quadro(クオドロ)」の始まり。

今となってはお洒落な街として知られている代官山ですが、当時は東京でも存在感がない土地だったそう。

 

–東京への進出は、当初からうまく行ったのですか?

海川:実は、名古屋でも東京でも売り上げはさっぱりでした。また1日の売り上げは1万円以下。それが1年半くらい続きました。ただ、周りの反対を押し切って上京したという意地もあり、借金をしながらも我慢を続けました。

 

–どのように立ち直ったのですか?

海川:正直に言うとです。1988年くらいから代官山にお洒落な店が集まり始めました。それは、渋谷や原宿、青山には店を出せない人たちが店を作っていったんだと思います。そして、代官山ブームが来て、その波に乗っかり業績が急上昇しました。


↑ 2004年当時、ディベロッパーが選ぶテナント大賞の”新人賞”に選出された「quadro(クオドロ)」

 

–そこから自社製品を売るようになったのですね。

海川:そうです。でも理由は当時急成長したことによって大手ショップから妨害を受けたことが理由です。それで、当時自分たちで作っていたシャツ以外の仕入れがストップしてしまったんです。そうして仕方なく、シャツ以外の製品も自社で作らざるを得なくなりました。それもまた幸運でした。その時に作ったジーンズが大ヒットして、渋谷にも店を出すほどに拡大しました。

ついに、sot(ソット)の創業へ

アパレルで業績を伸ばし、新たな舞台への挑戦を求めた海川。
それが、レザーブランド「sot(ソット)」の創業につながります。

 

–当時40歳手前となった2001年にsotを創業。

海川:洋書・CD・DVD・アクセサリー・メガネ・帽子・鞄など、とにかく服以外のものも集めたセレクトショップを始めたかった。その事業が「sot」であり、それを始めた場所が今の恵比寿本店です。そして、そのなかで人気が出たのが「鞄」。そこから本物の革製品を作りたいと思い、「sot」はレザーブランドになりました。

 

–そこからsotでこだわったのはどういったところですか?

海川:私がというよりも、デザイナーの岩根が追求したのが、タンニン鞣しの牛革でした。それは素材にこだわった革製品であり、年月と共にお客様に馴染んでいきます。とにかくお客様に愛着を持ってもらうということには、こだわり続けています。あと事業家目線で言うならば、日本にはその当時から海外に通用する鞄ブランドが生まれていない。それを追い求めて、「sot」は今なお挑戦を続けています。

 

品質やデザインを武器に、世界で定着できるブランドへ

創業経営者の海川は、長年野望を持ち続け、日々挑戦し続けています。
最後にファッション産業への想いや自身の夢について語ってもらいました。

 

–これから、ファッション産業においてどのようなことに挑戦していきたいですか?

海川:長年アパレル業界に関わる中で、ファッション産業におけるグローバル化により、日本が先進7カ国の中で、立ち遅れていることを私は強く危惧しています。それは鞄も同様です。それを肌で感じるからこそ、確かにある海外市場との間にある厚い壁を、是非打ち破りたい。

 

–sotも海外で通用するブランドにしていきたいということですか?

海川:そうです。海外の鞄ブランドと戦えるようなブランドに「sot」を育てることこそが私の明確な目標です。そのような海外市場との間の壁を打ち破る役として、できれば私たち「sot」がその先陣を切ることができれば理想的ですが、日本の他社ブランドがそれを果たしても、私は大いに喜ぶことができます。価格での競争に走るのではなく、またアート性に逃げ込んでもいけない。

 

–そのためにはどのようなことが必要だと思いますか?

海川:最近は鞄やアパレルの枠を超えて、日本の伝統工芸を生かした製品づくりにもチャレンジしています。欧米の人々が作る製品の真似っこではなく、確かに私たち日本人のアイデンティティーを生かしたデザイン・クオリティーを兼ね備えた商品を世界に届けたい。それが私の夢なんです。

まとめ

60歳間近になった現在でも挑戦を続ける、創業社長の海川直樹。
今後もどのようなストーリーを描いていくのか非常に楽しみです。

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