日々多くの人々が行き交う街、渋谷。

そんな渋谷の街を象徴するものが、渋谷スクランブル交差点です。

渋谷のスクランブル交差点は外国人観光客に人気のある観光名所のひとつであり、世界一有名な交差点としても知られています。

本コラムでは、近年再開発が続く渋谷スクランブル交差点の概要と歴史を分かりやすく解説します。

スクランブル交差点と渋谷の街

江戸時代から交通の要所だった交差点

現在の渋谷スクランブル交差点は、1973年のスクランブル化(複数台の信号が同時に変わるシステム)になるまでは、現在のように人が波のように押し寄せる光景はありませんでした。

そして、渋谷スクランブル交差点を語るうえで欠かせないのが、渋谷という街の歴史です。

スクランブル交差点の歴史は遡ること、江戸時代。

当時、現在のスクランブル交差点のある場所を左右に横切ようにして伸びていたのが大山街道です。

大山街道は、大山阿夫利神社という、当時の人々に大変人気のあった観光地である神社に向かうための道として栄えました。

また、大山街道は東海道に通じる、交通の要衝であったため、現在のスクランブル交差点付近は、江戸時代から多くの人々と荷物を牽いた馬車などが忙しなく行きかっていたそうです。

北斎が描いた渋谷の風景

また、大山街道は、多摩エリアで採れた水産物や農作物を江戸の中心地に移動するときにも使われました。

しかし、渋谷の街自体はそれから際立って発展することはなく、あくまで重要な街道のある街のままでありつつけました。

古くから田園が広がる農作地帯であった渋谷の風景は、葛飾北斎の冨嶽三十六景『穏田の水車』にみることができます。

表参道と渋谷を繋ぐキャットストリート。都内屈指のファッションスポット。

明治時代に活気づいた渋谷の街

1885年に鉄道渋谷駅が竣工したものの、当時の一日の駅利用者はわずか数十人。

駅周辺もいまだに田園風景が残る農村地帯であり、市電が人々を支える主な交通手段でした。

しかしながら明治になると、東京都心の土地開発が進んだことで、都心から少し離れた渋谷に沢山の人が移り住むようになっていきます。

とくに渋谷駅周辺は急激に風景が様変わりし、「富国強兵」というスローガンの下、増強を続ける軍の施設(代々木練兵場)などが次々に設置されていきました。

明治時代後半にかけては、さらに多くの軍事施設が立ち並ぶようになり、軍関係者や兵士たち多く暮らす街へと変化を遂げて、娯楽施設のある華やかな街に徐々に彩られていきました。

高度経済成長期のスクランブル交差点

太平洋戦争下、都内の需要都市はアメリカ軍の空襲で大きな被害を受け、渋谷の街も瓦礫だけが残る姿となりました。

戦後の渋谷は、GHQの管制によって闇市が綺麗に撤去されたのち、スクランブル交差点の整備など大規模な工事が行われたことで、街の景観は現在の渋谷に近いものになります。

1950年代~70年の高度経済成長期にかけては、センター街や駅前に大型百貨店が立ち並び、渋谷は日本一の繁華街となりました。

現在の渋谷スクランブル交差点

東京都を象徴する場所といわれるようになった、渋谷のスクランブル交差点。

一日約50万人もの人々が行き来する規格外の交差点を一目見ようと、近年は海外からの外国人観光客からも人気のある場所となりました。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

数千人が一気に交差するという圧巻の光景を見ることができるスクランブル交差点。

渋谷駅周辺にお越しの際は、過去の渋谷の風景を想像してみるのもよいかもしれません。

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