日々沢山の人々が行き交っている街、渋谷。
そんな渋谷を象徴するもののひとつに、スクランブル交差点があります。
スクランブル交差点は、近年外国人観光客に人気となったことで、“世界一有名な交差点”と呼ばれるようになりました。
この記事では、スクランブル交差点の概要と歴史について詳しく解説します。
スクランブル交差点とは?
江戸時代からある“交通の要所”
スクランブル交差点を語るうえで欠かせないのが、渋谷の街の変遷。
スクランブル交差点の歴史を遡ること、江戸時代。
当時、スクランブル交差点のある場所には、左右に横切るようにして、大山街道と呼ばれる大きな道が伸びていました。
大山街道は、当時の人気観光地であった、大山阿夫利神社に通ずる道としてだけでなく、東海道に通じる街道でもありました。
上記のような理由から、スクランブル交差点付近は、当時から大量の人と物が行き交う、いわば、“交通の要衝”だったようです。
田園風景が続く道
多摩周辺で採れた水産物や農作物を、江戸の街に届けるときに使われた、大山街道。
江戸全体が巨大になるにつれて、街道には、ありとあらゆる出店が軒を連ねるようになりました。
しかしながら、渋谷周辺はあまり発展することなく、田園風景が延々と広がる、農作地帯のままだったようです。
その光景は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師、葛飾北斎作『冨嶽三十六景:穏田の水車』に見ることができます。
明治時代にかけて大きく変わった、街の風景
渋谷駅の前身となる「鉄道渋谷駅」は、明治時代に市電の駅として作られました。
当時、一日の駅利用者は両手で数えられるほど。
鉄道渋谷駅周辺もまた、田園風景が色濃く残る、農村地帯であったようです。
渋谷の街が大きく変化したのは、明治時代の終わり。
東京の開発が進んだことにより、大勢の人が都心から離れた場所に移り住むようになったことで、渋谷駅周辺の環境は大きく変化しました。
日本軍の施設が存在した
『富国強兵』が国の方針になると、日本軍の施設(代々木練兵場)が設置されていくようになり、軍関係者、兵士が暮らす街へと変貌を遂げていきました。
また、それに伴って、娯楽用の施設が増加したことで、少しずつ華やかな街になっていったのでした。
スクランブル化を遂げて・・・
太平洋戦争の最中、東京都の街は米軍による大規模な空襲による被害を受けました。
渋谷駅周辺は、焼け野原となり、戦争が終わると、たちまち闇市が作られました。
しかし、GHQの指導によって、すぐに闇市は撤去され、スクランブル交差点の整備が進められていきます。
上記のような大規模工事が行われたことで、渋谷の街の景観は、現在にほど近いものになりました。
また、高度経済成長期にかけて、渋谷センター街、渋谷駅前に百貨店が立ち並びはじめ、ついに渋谷は日本一の繁華街となります。
そして、1973年の交差点のスクランブル化(複数台の信号が同時に変わること)により、人が波のように押し寄せる光景が生まれました。
ライブカメラが大人気?
東京の街を象徴する存在となった、スクランブル交差点。
そして現在、一日当たり数十万人もの人々が行き来をする“世界一の交差点”を一目見ようと、沢山の観光客が訪れる人気観光地となりました。
また、動画配信サイトの発達により、ライブカメラ映像が人気を集めています。
リンク:YouTube
まとめ
いかがでしたでしょうか?
“世界一の交差点”と呼ばれるように、毎日圧巻の光景を見ることができる、スクランブル交差点。
江戸時代から続く、渋谷駅周辺の歴史。
渋谷駅を利用する際は、スクランブル交差点を利用してみてはいかがでしょうか。